YASUNAGA UENO
今から7年くらい前、STIMMER SAALで弾かせてもらったBOSTONPianoの音色が忘れられずに私の心にありました。期せずして主人の赴任先が米のBostonに決まり、これはもう運命かもしれないと思い、BostonPianoを思い切って購入することにしました。まだまだピアノをはじめて何年も経っていない子供達のために、こちらでは研究員の身分で贅沢は出来ないはずの我が家でしたが、良い楽器で勉強しなくてはいけないと日々感じていた私に、迷いはありませんでした。そしてその良い楽器を手にするには、上野さんの調律が切り離せないものでした。そのため無理を言って年に一度、地球の裏側まで来て頂いているというわけです。 楽しい楽器を手にすると、おのずと楽しい音楽を奏でたくなるものです。表情豊かなピアノに出会うと、演奏者のイメージも膨らんできます。 上野さんのピアノはそういう楽器です。調律者が精魂こめて魂を吹き込んだ楽器を、私たちも心を込めて演奏しようと努力します。優希11才、杏佳8才、はじまったばかりでまだ先は見えません。しかしこの二年間の彼女たちの成果はたいへん大きいものでした。 (2006年8月)
調律師の上野泰永さんと芸術センターのピアノと格闘。会場は黒幕を張り巡らせて、かなりの吸音状態で、音が死んでしまっています。しかも、今回使用するピアノの状態が相当悲惨で、音がどんづまりです。で、上野さんとピアノやアコーディオンの位置決めから、いろいろ試行錯誤。アコーディオンを20cmほど高い台の上で演奏するだけで、音が断然伸びだしたり、音は本当に生ものです。ピアノもかなり復活してきました。
サウンドチェックをしました。とにかく鳴らないピアノを調律の上野さんとあの手この手で蘇らせながら、さらに暗幕など吸音材ばかりの会場で響きがないので、生音でやっている感じを出すために、薄くPAします。スピーカーから出る音というのは、相当慎重にやらないとスピーカーっぽい音になってしまい、ライブ感が損なわれていきますし、演奏者自身の演奏の繊細さがそぎ落とされる危険性があるので、コンディションづくりは相当慎重になります。今日は2時間半やりましたが
全然足りず、明日以降も、サウンドチェックを連日続けて試行錯誤をすることになりそうです。
調律の上野さんも来て、ピアノを少しでも鳴るようにあの手この手を使って調律してもらいました。
調律の上野さんは、ぼくのお願いにとことん応えてくれて、不可能を可能にする奇跡の調律で、ピアノを蘇らせてもらって、本当にありがとうございます。
~“Miyoshi ピアノ・メソード”のレッスンを音楽ホールで~
レッスン日時 | 相談に応じます。 |
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場所 | スティマー・ザール (守山市勝部5丁目2-62) |
対象 | 3才児~ |
問合せ | 077-583-4511 (スティマー・ザール) |
ピアノとピアニストとピアノ音楽を愛する上野さんは、ピアノの申し子。19世紀のマイスターたちのように、上野さんはピアノと会話し、ピアノの幸せのために献身する。ピアノにも幸不幸がある。楽器は敏感な生き物だから、人の気づかない微妙な条件の変化で、ご機嫌になったり、ふさぎ込んだりする。ピアノもその巨きくて堅牢な外観からは想像できないほど繊細な楽器だ。そのことに気づいていないピアニストに弾かれるピアノは、可哀想にいい音を出せない。
スティマー・ザールの豊饒な響きの中で、上野さんはピアノを育てる。スティマー・ザールそのものが一つの楽器になって、ピアノの幸せな歌を奏でている。全体が楽器のようなこの空間に、音楽教室を開かれるという。子どもたちはここで、幸せなピアノとすぐなかよくなって、彼ら自身が幸せなピアニストに育ってゆくだろう。
1927年製 N,Y Steinway&Sons 自動ピアノ
フォーラム246 株式会社アマダ内
平成1年に修復(NHKが取材)
その他
1856年製 PLEYEL (フランス) ピアノ
など多数のピアノを修復・復元しております。
プレイエル社は、1807年にオーストリア人の作曲家であるイグナース・プレイエルによって創設されました。「ピアノとは演奏者の声としての楽器であり、そして芸術品であるべき」と主張したイグナース・プレイエルは、 その生涯を楽器創りに捧げました。 1831年にイグナースが他界した後は、息子カミーユがその跡を継ぎました。 プレイルピアノは、偉大なピアニストでもあった彼の手によって様々な改良が加えられ、 数々の特許を取得し、また国際的に認知されることになります。
プレイエルピアノは多くの著名音楽家たちに愛され続けましたが、中でもピアノの詩人と言われたショパンはさて、プレイエルといえばショパン抜きには語れません。
ショパンいわく「私は気分が優れないときはエラールを弾き、気分のいいときはプレイエルを弾く」 ショパン的にはプレイエルの方が好きだという いうことなのでしょう。その音色を「銀の鈴を鳴らしたような やわらかな音色だ」と表現し、生涯このプレイエルのピアノを愛し続けました。 ショパンが祖国のポーランドを離れ、ウイーンを経由して1832年にパリにきたとき、この天才を見出して、 世の中に紹介したのはカミーユでした。ショパンがパリで行なう公式のコンサートは全て、プレイエルサロンで 行なわれています。
当時のプレイエルで ショパンを弾くとなんともいえない美しさを感じます。ふんわりと響きがつく音色はとてもショパンに合うのです。
ショパンが所有していたプレイエルのピアノは1839年製のもので、この楽器は存在している。
また、ショパン自身が晩年(1848年5月6日)に語ったところによると、当時所有していたピアノは、プレイエル、ブロードウッド、エラールの三台であった。
音楽ホール<スティマー・ザール>がピアノ教室を開催します。
この教室のレッスンは
元・桐朋学園大学学長の三善晃先生が考え、作曲し、組立てた「Miyoshi ピアノ・メソード」を教材に使いプロの音楽家たちが使用しているスティマー・ザールのホールをレッスン場所にして、コンサートピアノを使って行っています。
ピアノの表現力をこれまでの常識に閉じ込めず、子どもの可能性に積極的に触れ、のびのびとした雰囲気のなかで楽しく練習できるように考えられたメソード(=方式)は、特にこれからピアノを始めようとしているお子さんにおすすめしたいと思います。
スティマー・ザール 上野泰永